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  • ワンドの5  FIVE OF WANDS

    ワンドの5 FIVE OF WANDS

    「ワンドの5」が象徴していること

    このカードに描かれている人々は、まるでお互いに戦っているかのようです。

    そこには、お互いに協力し合おうという努力はなく、意見の一致もなさそうです。このカードが出てきた時は、まずは不安定な状況に備えておくことが必要です。目標とする地点に到達するためには、忍耐と根気強さが求められます。

    決して、それは大きな障害があることを意味しているわけではありません。ただ、多くのちょっとした面倒なことが待ち受け入れているということを示しています。

    また、このカードは、競争を意味します。それに相応しい状況の中で、競い合うことは、興奮を生み出し、更なる努力とベストを尽くすことを引き出すため、むしろ有効に働くこともあるでしょう。このカードが現れた時、競い合う状況に関連した実際の出来事がないか、見直してみてください。

    祝う 自由を求める 心が躍る

    祝うからは、「ハッピーな出来事に喜ぶ」「成功を感じる」「記念日、人生の重大な出来事、特別な日などを過ごす」「仕事の成功を祝う」「成果がもたらされる」ということが、連想されます。

    自由を求めるからは、「重苦しい状況から抜け出す」「束縛から自由になる」「解放される」「新たな可能性を開く」ということが、連想されます。

    心が躍るからは、「喜んではしゃぐ」「わくわくする」「期待して楽しみに待つ」「そのひとときに熱中する」ということが連想されます。

    「ワンドの4」が出たとき(正位置、逆位置共に同じ意味)

    結婚、出産、卒業などの通過儀礼を示します。住居の購入や、引っ越しを示唆する時もあります。家庭や仕事に関することで、幸せなことがあります。

    平和な休息時間。

    仕事の結果が良いものとして現れるでしょう。しっかりとした、基礎を築いていることが示唆されています。

    非常に穏やかなムードを醸し出しているこのカードには、「平和」という意味があります。決して派手さはありませんが、温かい人たちの中で心からリラックスしてくつろぎ、普段の疲れをゆっくりと癒すことができます。

    愛情の象徴である花が多く描かれることから、恋のロマンスに関しても、幸福や楽しさを望めるカードとなっています。

    逆位置であったとしても、あまり意味に違いはありません。少し時間はかかりますが、幸せは必ず手に入ります。今はその時を静かに待ちましょう。遅れが発生しても、解消する可能性が高いです。

  • 私が幸せになることは先祖の癒し

    私が幸せになることは先祖の癒し

    私の家族には、軽度発達障害が何人かと、実際に手帳を所有している者が複数人います。

    だから大変だったか、というとそこまでの自覚はありませんでした。

    そういった混沌とした、確信を得られないコミュニケーションしか取れないことが、当たり前だったし、今の自分の生活にそこまで影響があると思えていませんでした。

    「分かり合えないコミュニケーションは、疲れるから距離を置こっかな。めんどくさいし。」

    と、疎遠になっていたのは事実。

    実は、子供の頃から分かってもらえない寂しさを、固い石のように飲み込んでいることに気がつきました。

    「ああ、そうか。

    寂しかったんだな。

    わかって欲しかったんだな。

    分かってもらいたかったんだな。」

    自分の気持ちを見つめる機会があり、思ったよりも辛かったんだと認めることができました。

    みんなみんな、大変な思いをしているのだろうけど、

    うちの背景を少しまとめてみたいと思います。

    • 父方祖父 家出して実家の名を継がず、縁を切る。アルコール依存。
    • 父方祖母 連れ子再婚 色々あったそうだけど、詳細不明
    • 父方長男 おばあちゃんの連れ子(長男つまり私の父の兄) 家出。絶縁
    • 母方祖父 父親から暴力を受ける。父親は酔ったまま川に落ちて死亡。体に障害がある母親と寺の軒下で生活
    • 母方祖母 地主の長女 母親が四年生で過労死 継母との生活が嫌で家出 女中になる
    • 父親 アルコール依存の親に育てられる
    • 母親 軽度発達障害 仕事ばかりの両親の代わりに妹2人の面倒を見ながら過ごす

    私の祖父母は戦争の記憶がある世代。どこの家庭も多かれ少なかれこういった事情があるでしょう。

    繰り返しになりますが、不幸自慢をしたいわけではありません。

    客観的に振り返ってみると、とっても幸せで満足感をもった子ども時代を過ごせている大人が、どこにも見当たらない家庭であったのだなと思います。

    機能不全家族は、連鎖をするといいます。

    まさにその通りで、私の両親は、無条件に愛されて、幸福だね、安心していいよという愛情の注ぎた方が分からなかった。

    そこに、軽度発達障害の要素も加わるから、人の気持ちを理解することが、どうしても難しい。

    だから、私は愛されていないと思って生きてきたのだけど、

    小学校教員として子どもたちと向き合った経験や、オーラソーマというセラピーを学んだこと、心理学に関する著書をたくさん読んだこと、コネクション・プラクティスというコミュニケーションスキルを学んだことを学んだことで

    素直な愛し方、愛され方をができるようになりました。

    すると、私の先祖が喜んでいる感覚になりました。

    おそらく何世代も、私の先祖は

    真っ直ぐに愛し、愛されることが苦手だったのでしょう。

    私が幸せになることで、先祖が笑顔で喜んでくれている気がしています。

    お墓参りに行くことだけが、先祖供養ではない。

    たくさんの命が繋がった先にわたしがいます。

    その、わたしが幸せになることが、先祖の願いで、喜びです。

    みんなみんな、幸せになっていい。

    生きる価値がない人なんていません。

    自分の幸せを願う人がどこにもいないなんて嘘。

    たくさんの命が、

    わたしやあなたの心からの笑顔や幸せを、願っています。

  • 消えてほしい相手は、あなたの心に生きている

    消えてほしい相手は、あなたの心に生きている

    今日は、共感について考えていきたいと思います。

    共感とは、心理学辞典によると

    他人の気持ちや感じ方に自分を同調させる資質や力を意味する。すなわち,他人の感情や経験を,あたかも自分自身のこととして考え感じ理解し,それと同調したり共有したりするということである。その結果,ヒトは他人のことをより深く理解することができる。

    ということです。

    自分のことのように、他者のことを考え、感じ、理解する。それが共感であるという説明が続いています。

    共感といえば、他者に向けた感情や行為であると私も認識していました。

    最近痛感するのは、「自己共感」の大切さ。

    自分に利害のない相手、自分の感情が揺さぶられない、ある程度距離を取れる相手には、

    比較的、簡単に共感力を示すことができます。

    私は小学校の教員をしていた時期があります。

    小学校の教員として、子どもに共感するのは役割。自分の仕事と心の底から思っていたので、

    共感を示すことは苦ではありませんでした。

    また、保護者に対しても、共感を示すことは仕事のうち、自分の役割だと思っていたので、負担に感じることなく需要的に話を聞くことができました。

    それは、例えば「あの教員は、教員失格だ」というような過激な発言をされる保護者の方だとしても、

    「そう言いたくなるほど、心が苦しいんだな。子育てに悩んでいるんだな。」と

    感じ、理解を示すことができました。

    保護者対応が辛くて悩む教員もたくさんいますが、私の場合は、攻撃的な言葉を向けられたとしても、

    それも仕事のうちだという認識なので、

    丁寧に聞き取りを続け、解決までどのような子どもにも、保護者の方にも寄り添うことができました。

    同じく、一般的に見ると問題行動を繰り返す児童に対しても、

    その裏にある想いは何か、ということに心から興味を示し、

    決めつけることなく、声をかけ続けることができました。

    苦手意識を感じるような子どもとは10年間、出会っておらず、年度末には必ず、このクラスから離れたくない、

    この子ともっと一緒に過ごしたい。

    そういう感情が湧くようなクラス経営や、児童理解ができていたように思います。

    子ども側からの評価は分かりませんが、私の気持ちは、いつも子どもに対して前向きにな感情を抱き続けることができていました。

    同じようなスタンスで、誰に対しても共感力を示せれば良いのですが、

    同僚に対しては、同じ共感力を示すことができません。

    私の基準から見た勝手な判断で、

    「あの先生は、子供の気持ちを大事にしていない。改善すべきだ。」

    「あのような威圧するような声の掛け方は間違っている。指導されなければならない。」

    そういった思いを抱くと、その対象となる先生に、全く共感することはできず、

    消えていなくなってほしいと思うほどに、

    嫌悪感を感じるようになってしまいます。

    それは事実かどうかは、違うと思います。

    本当に、間違っているとは決められないことです。

    私が勝手に、許せない!と思ってしまうというだけで、

    それが真実かどうかは別問題です。

    「許せない!」「いなくなれ!」という感情を、言葉に発することはしませんでしたが、

    やはり心の内面は現実を作るというように、

    私は職員室、同僚の中で、

    仲間を作ることがいつもできませんでした。

    どこか浮いてしまいます。

    教師であるのに、職員室の中にいる他の教師が敵に見えてしまうことがありました。

    それはどうしてか。

    やはり、先生、仲間、同僚というものに対し、

    私が多くのことを期待していたからではないかと思います。

    「許せない!」と思うのは、

    もう相手と自分の間に、安全なスペースはありません。

    相手が自分に影響を与える危険な人物に思えてしまっています。

    理由は、

    「インナーチャイルドの叫び」

    子供の頃の私は、

    先生には、いい子をしすぎている自分に気づいてほしかった。

    先生に、いい子をさせられ、教科書の代わりに扱われている状況、期待に応えることで

    必死だったので。そんなこと、させないでほしかったという根深い恨みを持っています。

    中学の時、学年中から口を聞いてもらえなかったり

    高跳びのラバーマットの下敷きにさせられるようないじめにあった自分を

    どの教師も助けてくれなかった

    いじめはダメだと言いながら

    いじめを黙認していた

    教師のくせに、職員室でも発言権のある強い教師と弱い教師に分けられ、平等ではない空間を作っている。

    間違っている。

    許せない。

    裁かれるべきだ。

    もうこれは、自分の感情がマグマのように噴出してくるので、

    どうしたって、他の教員に対して、保護者に共感力を発揮していたようには

    接することができません。

    自分の湧き上がる感情にまみれ、ダメ教師レッテルを勝手に張ってしまった相手とは、

    うまくコミュニケーションを取ることができません。

    対象になる教員が、少なければまだしも、

    結構な割合で現れるので、

    心の中の重しのような暗い気持ちが蓄積されていき、

    教員を退職するという選択を取ることになってしまいました。

    現実的に、そういった勝手にダメ教師だと思う相手を

    排除して、やめさせるというのは不可能です。

    保護者からの3時間以上続いたクレーム電話にも、心が折れることはありませんでした。

    児童養護施設や、他県への子ども病院の小児科医に、子どものことで面談をしに行くこと、朝出勤前に子供を迎えに行ってから登校すること、

    さまざまなことがあっても、子どもや保護者のことなら

    全部許せるのに、

    どうしてもどうしても、教師のちょっとした不適切発言は許せない。

    1番の問題は、その教師でしょうか。

    いいえ。違うんです。

    私の心の中の問題なんです。

    私のインナーチャイルド、子供の頃の自分が、

    「どうしてあの時、助けてくれなかった!わかってくれなかった!」

    と叫び続けているから、

    大人になって、自分が教師になった段階になっても

    当時の先生のような人を見つけるたびに、

    相手を消滅させたいと願うほど、嫌悪してしまうのです。

    ここで必要になるのは、

    自己共感。

    私は、当時の大人に苦しさを分かってもらいたくても

    わかってもらえないと感じていた、

    寂しい感情でいっぱいの子どもの頃の自分の心に、気がついてあげなけらば行けなかったんです。

    あの頃の小さな私が、先生たちを許してあげられなければ

    教師をしている人間を、尊重することができません。

    その想いは自分に返ります。

    私は、教師を続けられなくなりました。

    自分で自分にナイフを向けていたようなものです。

    「ああそうか。嫌悪感を抱いていた教員にも私は、自分のことを理解してもらいたかったんだ。」

    その本当の願いを知り、力が抜ける思いがしてきます。

    相手を攻撃して痛めつけたいということではなくて、

    本当の願いは、そんな相手にも、私は理解してもらいたかったんだということに気づきます。

    これは、私の話ですが、

    職場や仲間内などで

    どうしても許せない相手や、

    攻撃したい衝動を感じる相手がもしもいるとしたら、

    あなたの心の中にも、叫んで続けている、蓋をしてしまった感情が

    隠れているのかもしれません。

    相手を罵るのを止めているわけではありません。

    どんな感情も、

    蓋をしては、後から吹き出してくるもの。

    悪口大会を、信頼できる人の中でするのも大事なこと。

    その上で、深呼吸をし、

    同じような体験、同じような感覚になった過去が

    自分になかったか、問うてみてほしい。

    「ああ、そんなに辛かったんだ。」

    「寂しかったんだね。」

    「悲しかったんだね。」

    「わかってもらいたかったんだね。」

    置き去りにされてしまった、過去のあなたが心の中に、まだ生きているのかも。

    今の大人になったあなたになら、

    きっとその感情を抱き締めて、

    癒してあげることができるでしょう。

    私も、自分の中の心の声に耳を傾け続けます。

    私も、人と繋がるために、

    相手にだけでなく、

    同じか、それ以上の共感を、自分に示すことから始めていくことにしました。